かわりゆくカンボジア(下、カンボジアの命「トンレサップ湖」)

 カンボジアのほぼ中央に世界最大の熱帯湖トンレサップがある。いつも茶色く濁った水をたたえるこの湖は、アンコール王朝時代から現在にいたるまでカンボジアに住む人々の生活に密着した存在だ。いくらでも獲れる魚はそのまま食卓にのぼるばかりかカンボジア料理にかかせないプラホック(発酵食品)やトゥックトレイ(魚醤)の材料になる。

 この湖が人々にもたらすものは魚だけではない。生活の場をも与えてくれる。雨季に水浸しになり乾季にはからからに乾く大地より湖上生活のほうが快適だ。凸凹だらけの道路より舟で移動したほうがずっと早い。

 観光都市シェムリアプにほど近い湖畔の集落で舟に乗る。するとこの湖がここに暮らす人々の生活の場のすべてだということにすぐ気づく。広い水路に沿ってレストランや食料品店、美容室と立派な店構えの建物が並び、その間を商品を山のように積んだ行商が移動している。派出所がある。小学校もある。たくさんの一般住宅がある。すべてが水上に浮かんでいる。

 一九九二年八月、湖での調査の帰りに一軒の水上住宅に立ち寄った。ふいの訪問にもかかわらず主婦らしい女性が熱いお茶をふるまってくれた。粗末ながらも手入れのいきとどいた室内には花が飾られ、家の裏手には漁網が何枚も干してあった。家族だけで漁業を営み獲れた魚はシェムリアプの市場に売るという。けっして豊かではないだろうが平和な暮らしにみえた。だが数週間後にその集落が武装集団に襲われ多くの住民が殺害された。訪問した家がどうなったかわからない。銃声の絶えることがなかった当時のこととはいえこの事件は今も頭から離れない。

 平和になった今のトンレサップ湖はアンコール遺跡につぐ観光地となった。たくさんの観光客を乗せた遊覧船が朝早くからエンジンの音もうるさく水上集落の中を巡っている。観光用の養魚場や水上喫茶店も開店した。人々も観光地としての生活にすっかりなれたようだ。家の中にまでカメラを向ける外国人を気にするようすもない。

 住民の暮らしに大きな変化がみえる。屋根にテレビアンテナが立っている家が増えてきた。カンボジアの村でテレビは高級品だ。人々の暮らしがそれだけ豊かになってきたのだろう。かつて産業といえるのは小規模な漁業だけだった。今は観光産業からの現金収入がある。うまく遊覧船のドライバーにおさまった漁民がいる。その一方で網元に雇われ薄給重税のもとで働かざるをえない漁民たちも多いという。

 人々の暮らしの変化とともに湖のようすも変わってきた。プラスチックのゴミが水面に浮かんでいる。今の生態系を破壊するような獰猛な外来魚が見つかった。乱開発で多量の土砂が湖に流れ込みはじめた。そのどれもが好ましい変化とはいえない。

 トンレサップ湖はカンボジアにとってアンコール遺跡とならぶ財産だ。しかし、その実体はほとんど何も調べられていない。どんな生物が棲んでいるのかさえもよくわかっていない。この大きな自然の恵みを将来に残すためにはこの湖のすべてを正しく知ることが不可欠だ。いったん変わってしまった湖はもう元には戻らないのだから。

(金沢大学工学部土木建設工学科 塚脇真二)

 

写真1.八年前の水上住宅群。粗末な家ばかり並ぶ。一九九二年八月撮影。

 

写真2.昨年にオープンした水上喫茶店。背後の住宅も新しい。今年三月撮影。

 

写真3.食料品の行商の舟。今年六月撮影。