写真集の発刊にあたって(塚脇育生写真集「写真と人生」)  

 この写真集は父が遺した作品の中から、国際写真サロンに入選した作品を中心に、「スイング」や「春の善光寺」といった父の思い入れの深い作品、そして「モンゴルの子供」や「朝のホーチミン」といったこれから国際写真サロンに応募するつもりであったろう外国で撮影した作品で構成されている。

 かねてから写真好きだった父が国際写真サロンへの応募といったかたちで本格的な作品づくりに取り組みはじめた昭和60年には、私や妹は仙台あるいは東京とすでに遠く離れて暮らしており、ときおりの電話や母の言葉にしかそのようすを知るすべはなかった。写真を撮りに出かけるだけでなく、国内外の旅行に、ゴルフに、水彩画に、あるいは葦ペンにと、母やたくさんの友人たちと悠々自適の日々を送っていたようだ。

 しかし数々の趣味の中でも、国際写真サロンへの入選にとくに情熱を燃やしていることだけは、作品の画題だけを書きつらね「英訳してくれ」と一言だけ書き添えたファックスが毎月のように送られてくることでよくわかっていた。画題の英訳という面倒な作業に、このファックスがやってくるたびに文句もひとこと書き加えて送り返したものだ。そんなやりとりが10年あまりも続いたことになる。入選するたびに電話で自慢げに知らせてくれた。それがいつのまにやら103という数字になっていたとは驚きである。「継続は力」を実践したというべきだろう。

 平成14年12月に病気が見つかりすぐに大牟田市天領病院に入院した。幾多の難病を切り抜けてきた父だけに、今回もたいしたことはないだろう、というのが希望を込めた家族の願いだった。しかし、病気の進行は想像以上に早く、入退院を繰り返す約3ヶ月間の闘病生活の後、平成15年3月15日午後3時30分に77年の生涯を閉じた。

 自分の写真集を出版したい、とは父のかねてからの希望だった。傘寿をめざして準備を進めていたようだ。しかし、今回の病気からばかりは逃れられないと察したのだろう。平成15年正月に病院から一時帰宅したとき、寸暇を惜しんで出版準備を進める後ろ姿が部屋にあった。葬儀を済ませてその部屋に入ってみると、ファイルにきちんと整理された出版用の写真、そしてわら半紙に書き綴った撮影日記が見つかった。

 アンコール・ワットを訪れてみたい、と言い続けていた父であった。息子が長年調査を続けている場所を見てみたいという理由もあったのだろうが、おそらくは有名なアンコール・ワットを撮ってみたかったのだろうと思う。その願いをかなえてやれなかったことが悔やまれる。

 この写真集を発刊するにあたって、父の師ともいえるオームタ35クラブの久野脩会長ならびに大牟田美術協会の加治屋陞会長にはお祝いの言葉をたまわった。同じく長年の写友である甲斐友行ならびに蓮尾至誠の両氏には作品の細部にいたる修正などの労を執っていただいた。また、父の無二の親友である中川原建二郎氏には父が永眠する間際まで見守っていただくとともに葬儀にあたっては胸を打つ弔辞をいただいた。ここに記して心からの感謝の意を表したい。

 なお、すべての収録作品に撮影日記を書いておきたかったようだが、書き残されていたもののみを掲載せざるをえなかった。国内で入選したおもな作品や表彰については、部屋に遺されていた表彰状などにもとづき整理したため遺漏があるかもしれない。そして、父が重い病状をおして書き綴った巻頭の辞にはいくらかの誤謬がみうけられた。実の息子ならば許されるであろう範疇の中でこれらを修正していることをご容赦願いたい。

平成15年4月7日 金沢にて

塚 脇 真 二