荘厳なクメール遺跡

 有名なアシコール・ワットにくらぺ、アンコール・トムを知る人は少ないだろう。クメール語で「大きな町」を意味するアンコール・トムは、アンコール・ワットよりさちに巨大なクメール遺跡である。その中心には観世音菩薩をまつるバイヨン大聖堂があり、その北側には三島由紀夫の短編でも有名な「ライ王のテラス」がある。

 アンコール・ワツトを訪れたとき、初めからその見事な造形美に圧倒された。長大な周壁の中央にある立派な門をくぐって境内に入る。すると、その正面には三重の回廊に回まれた五本の尖塔が整然と立ち並ぶ。宇宙世界を模したとされるこれらの塔は、神が降臨する場にふさわしいものに感じた。しかし、クメール建築の最高傑作のひとつとされるアンコール・トムのバイヨン大聖堂を初めて訪れ

たとき、それはただの岩塊にしか見えなかった。

 二年前の夏にそのアンコール・トムのバイヨンを調ぺることになつた。アンコールの遺跡はほとんどが地盤沈下のため石積みがゆるみかけている。そこで、手動のポーリング(掘削器)でバイヨンのまわりの地面に穴を掘り、地下水がどのあたりにあるのか、地盤に十分な強度があるのかなどを調べたわけである。プノンペン芸術人学で地質学を教えるソリス氏と彼の学生のソク君、さらに近くの村の若者ふたりにも助けをたのんだ。

 熟帯の硬い上を掘るのは重労働である。しかも、遺跡の周囲には強烈な日ざしをさえぎるものが何もない。午後になると必ずスコールがやってくる。しかし、そんな過酷な環境で毎日汗だくになり、雨に打たれながらバイヨンを見ていると、ただの岩塊にしかすぎなかった大聖堂にだんだんと親しみを覚えるようになつた。

 まず色彩の変化がとても美しい。バイヨンに使われている石材はあまり上質の砂岩ではない。だから水分がすぐにしみこんでしまう。そのため早朝のパイヨンは朝露を吸い込んて鈍い灰色に沈んでいる。しかし、だんだんと日が高くなるにつれて砂岩は乾燥し、パイヨンは銀白色に輝き始める。さらに午後のスコールが砂岩にしみわたるとバイヨンは深い緑色に変わる。このような色彩の変化、とくに雨上がりのパイヨンが見せる荘厳な美しさは、アンコール・ワツトにはないものである。

 パイヨン大聖堂のもうひとつの魅力は、「バイヨンの微笑」として有名な観世音菩薩の彫刻である。バイヨンには五十以上もの塔が高く低く立ち並ぴ、すべての搭には巨大な観世音菩薩の顔が刻まれている。つまりこの大聖堂の中では、どこにいても常にいくつかの顔に見下ろされていることになる。それは微笑というつより奇妙な薄笑いに見えて気味が悪かったし、どうにも落ち着かなかった。しかし、そこに三日もいるとその微笑がだんだんと親しく感じられるようになり、深い安心感に包まれるようになつた。

 私の研窒にはバイヨンの微笑を模した木彫りの面が掛けてある。それはいつも穏やかに微笑んでいる。

塚脇真二(つかわきしんじ)