トンレサップ湖 −カンボジアの命−

塚 脇 真 二

(金沢大学工学部土木建設工学科)

 

魅惑の湖トンレサップ −はじめに−

 アンコール遺跡群のすぐ南に東南アジア最大の湖トンレサップがある。一年中茶褐色の泥水をたたえるこの湖は栄華をきわめたクメール文明を育んだ湖として有名であるとともに、季節によって水域面積や水深が大きく変化する「伸縮する水域」として世界にまれな存在でもある。「トンレサップ湖」という名前を知ったのはたしか中学校の地理の時間だった。季節によって大きさが何倍にも変わる湖がカンボジアにあると教わり、いつか自分の目でその湖を見たいものだとずっと思っていた。その夢がかなってトンレサップ湖を初めて訪れることができたのは一九九二年八月のことだ。第八次アンコール調査団に地質学担当として参加したわたしは、バイヨンやバンテアイ・クデイ遺跡で地下地質構造を調べるかたわら時間を見つけては湖へと出かけていった。雨季の水に満ちあふれ青々と稲の茂る水田の中を一直線に湖畔へと道がのびる。道路とは名ばかりの凸凹道をジープを走らせること小一時間でシェムリアプ川下流の水上集落に到着した。粗末なエンジン付きの小舟を借りて集落の中を南へ向かうこと三十分。それまで水没した木々でさえぎられていた正面の視界が突然ひらけ、舟は湖のへりにぽっかりと浮かんでいた。目の前には茫漠とした茶色い泥の海が広がっている。対岸はまったく見えない。その大きさに圧倒されながらもビールの空き缶で造った急造の採泥器を泥水の中に沈めた。そして,そろそろと引き上げた採泥器の中には湖水と同じ色をした赤茶色の泥が入っていた。これが第一回目のトンレサップ湖調査となった。

 もともとは海洋地質学を専攻するわたしである。研究者としての興味は自然とトンレサップ湖へ向けられていった。雨季と乾季との水位変動や面積の変化によって湖底の堆積物はどのように削剥され、どこへ運搬され、どこに堆積しているのか。この湖がいつ誕生しどのような過程をへて現在の姿になったのか。そして将来はどのように変わっていくのだろうか。湖に棲んでいるフグやエイなど海の魚たちはいつどこからやってきたのか。この湖によって育まれたともいえるクメール文明の盛衰を湖の研究という新たな視点から解釈できないものだろうか・・・。トンレサップ湖は「魅惑の湖」となっていった。

 

世界最大の水たまり −トンレサップ湖の特異性−

 トンレサップ湖の特異性を世界の中で位置づけるものとして三つあげることができる。第一に雨季と乾季とで水域面積と水深とが大きく変化すること。このような特徴をもつ湖はは世界に唯一といってよい。第二には多種多様の生物が生息すること。さまざまな種類の魚類が生息することではおそらく世界一だろう。そして三番目にはアンコール王朝の時代あるいはそれ以前から現在にいたるまで、カンボジアに住む人々の生活・文化・社会と密接に関係していることである。ひとつの湖がある民族あるいは国家とこれほどまでに密着している例は世界に類がない。

 トンレサップ湖はカンボジアのほぼ中央にあってトンレサップ盆地と呼ばれる広大な低地の中央に位置する。この盆地は北縁をダンレク山脈、西縁・南西縁をカルダモンおよびエレファント山地によって限られ、盆地内にはクーレン山地やプノン・バケン、プノン・クロムなどの小丘陵が散在する。これらの山地から湖へ流入する多数の河川は五月から十月にかけての雨季には豊富な水量を誇るものの、十一月から四月にかけての乾季になるとシェムリアプ川などいくつかをのぞきすべてが枯渇してしまう。一方、この湖はトンレサップ川によってアジア有数の大河メコンと首都プノンペン付近でつながっている。中国西奥の雲南省に端を発するメコン河は、ミャンマー、タイ、そしてラオスをへてカンボジアに入ると首都プノンペン付近でメコン本流とバサック河とにわかれ、両者は広大なメコンデルタを形成しつつヴェトナム南部で南シナ海に注ぐ。プノンペン付近ではこれらの四河川がチャクトムクと呼ばれるK字型の合流部を形成する。

 乾季のトンレサップ湖は長軸が約百二十キロ、それと直交する短軸が約四十キロのひょうたん型の湖で、水域面積が約三〇〇〇平方キロ。水深が一メートルを超えるところはどこにもない。埼玉県ほどの大きさがありながらもっとも深いところが一メートル以下とは!「世界最大のみずたまり」の名がふさわしいように思える。湖水の透明度は乾季でも一メートル以下ときわめて低い。水温は一年をとおして摂氏二六〜三〇度と高く、pHは七.五前後とほぼ中性である。乾季に湖の南東端から流れ出す湖水はトンレサップ川を通ってチャクトムクでメコン河へ流入する。しかし、雨季になると上流の雪解けやモンスーンの豪雨によってメコン河は著しく増水する。そして乾季とは逆に多量の水がトンレサップ川をとおって湖に流入するようになり、このときに運び込まれた堆積物などによって湖の南東端部には複雑な形をした三角州が形成されている。これに加えて雨季にトンレサップ盆地内に降る雨が周囲の河川群から湖へと流れ込む。そのため雨季の水域面積は乾季の五倍近い一万四千平方キロ以上にもなり、これにともなって水深も十メートル以上に達する。雨季のトンレサップ湖は世界第十九位の水域面積をもつ大湖であり、熱帯低地にある湖としては世界最大である。

 このように雨季と乾季とで水域面積や水深が大きく変化するトンレサップ湖、そして季節によって流れが逆転するトンレサップ川の特異性は世界に類をみない。雨季になるとそれまではごくゆるやかにメコン河方向へと流れていたトンレサップ川の流れがまず逆転し、多量の懸濁物を含む泥水が湖方向へと流れ始め水位も上昇する。それにともなってトンレサップ湖の水位も徐々に上昇し湖岸線は内陸部に向かって前進を開始する。乾季には耕作地であったところに水が浸入する。湖畔に茂る木々は徐々に水没し、さいごには梢だけを水面上にのぞかせた浸水林となる。乾季に湖畔の小丘陵であるプノン・クロムは雨季のまっただ中には島と化す。雨季と乾季との繰り返しによって湖を取り巻く地域も生物も大きな変化を被ることになる。人々の暮らしもまた同様である。

 

豊饒の湖 −多種多様な生物相−

 世界最大の熱帯湖であり季節的に収縮と膨張とを繰り返すトンレサップ湖は、その周辺に広がる耕作地や水田などを合わせるとアジア最大の熱帯湿地となる。この湖特有の生態系が確立されていても不思議ではない。生物の多様性という点ではおそらく世界でも一級の部類に入るだろう。トンレサップ川をつうじてメコン河と連絡するこの湖はメコン河水域に棲息する生物たちの保育地ともなるだろうし、メコン河水系に棲息する生物の大部分がこの湖で見つかる可能性も指摘されている。しかし、トンレサップ湖に棲息する生物について、有用魚類と鳥類とをのぞいてはなにもわかっていない。魚類に関してもその生態などは不明のままである。彼らはいつどこで産卵するのだろうか。雨季の水没林での産卵が指摘されているがその真偽はさだかではない。彼らはずっと湖で暮らしているのか、それともメコン河や南シナ海にまで回遊するのだろうか。もともとは海に棲む魚たちがいったいいつどこからやってきたのか、どうして湖に棲むようになったのか。すべてが謎のままである。しかし、これだけ多種多様な魚が棲息しているからには、餌となるプランクトンやミミズなどにもさまざまなものがいるにちがいないし,昆虫類や両生類,そして爬虫類などについてもまた同様であろう。

 我が国最大の湖である琵琶湖は、淡水湖としては多くの魚類が生息することで知られる。それでも琵琶湖の魚種は六〇種に満たない。これに対してトンレサップ湖に生息する魚は現在記載されているものだけでも四百種にのぼり、このまま調査が進めば最終的には六〜七百種にも達するのではないかと推定されている。その中にはフグやエイ、サヨリにヒラメといった普通ならば海水に棲む魚も混じっている。琵琶湖の漁獲量は一ヘクタールあたり四〇キログラム。これに対してトンレサップ湖は五倍以上の二一五キログラム。桁違いの豊かさだ。この豊かな魚たちがトンレサップ湖周辺に住む人々の暮らしを支えている。カンボジアのどの町へ行っても市場には魚があふれている。クメール人が好物とするプラホックやトゥックトレイはこの湖やメコン河から獲れる魚から作られる。トンレサップ湖がカンボジアの食を支えているといっても過言ではない。まさに「豊饒の湖」である。

 

命の湖 −トンレサップ湖に暮らす人々−

 アンコール遺跡のあるシェムリアップ市から南へ車を走らせると、乾季でも一時間たらずでシェムリアプ川河口の船着き場に到着する。そこで船に乗り換えて川を下っていくと、この湖がここに暮らす人々の生活の場のすべてであることに気づく。ひときわ大きく目立つ建物は小学校だったりプラホックを作る工場だったりする。表通りに相当する大きな水路に沿ってはレストランや食料品店、金物店、美容室、そしてガソリンスタンドと立派な店構えの建物が並ぶ。山のように商品を積んだ雑貨や衣類の行商がゆっくりと移動している。目立つところには派出所がある。これらの背後には似たような形の一般住居がぎっしりと並び、その簡素な屋根には開いた魚が干してある。そして、これらのすべてが湖上に浮かんでいる。飲み水こそ雨水を貯めおいているようだが、洗濯や行水はもちろんのこと野菜を洗ったり皿を洗ったりするにはすべて湖水を使っている。用を足すのも天然の水洗トイレ。水の中では魚たちが待ちかまえている。豚や鶏を飼っている家も多い。犬や猿、そしてサギやペリカン,大蛇までもがペットとして飼われている。ゆったりと揺れる舟の上でも動物たちは平気なようだ。家々の周囲には藤や竹でつくられたいけすがある。その中では大きな魚が跳ねている。船外機付きの小舟に引っ張られている住居がある。引っ越しらしい。そろそろと移動する住居には、他の住居にぶつからないよう数人の男たちが手を添えている。小学校の周囲では裸の子供たちが水の中で楽しそうにおいかけっこをしている。湖面は彼らの運動場だ。下校時間には送迎の舟が小学校に横付けになる。さきほどまでは裸で遊んでいた男の子たちも、このときばかりはさっぱりとした白いシャツに紺の半ズボン姿にかわっている。

 雨季ともなれば湖畔はさらににぎやかになる。日に日に拡大する湖岸線を追いかけて水上集落も内陸部へ向かって移動する。シェムリアップ川に沿って一直線に走る道路が日を追うごとに先端から水没してゆく。道路の行き止まりにある船着き場や小市場は迫る湖から逃れるように移動する。そしていっぱいに広がった水面はプノン・クロムの麓にまでおよび、そこまで移動してきた水上集落は、山麓に立ち並ぶカンボジア特有の高床式住居群と一体化してしまう。それとともに乾季には数少なかったヴェトナム系やチャム系漁民の姿が湖畔のあちこちに見えるようになる。増水したトンレサップ川や湖をわたってやってきたのだろうか。舟に家がのっかっているのではない。大きな舟がそのまま住まいとなっているものが多い。ただ、彼らとクメール人たちとは共存しているわけではないようだ。水路の左右にうまく住み分けているようにみえる。異なる民族が同じところで生活するのはカンボジアでは珍しい光景だ。湖の豊かさがそうさせるのだろうか。

 湖畔の水上集落からさらに沖合へと船を向ける。湖が縮小する乾季でも対岸はかすんで見えない。はるか沖合を優美な水中翼船が走っていく。プノンペンとシェムリアプとを結ぶ定期便だ。雨季には寸断される国道よりも湖上を走る船のほうがはるかに確実な交通手段になる。走り去る船を目で追ってゆくとはるか向こうにプノン・クロムが見えた。天気さえよければ湖北部のどこからでみえるこの山は、シェムリアプの所在を示すいい道しるべになっている。岸に沿って舟を走らせると湖畔のあちこちから湖の中心へと向かって竹でできた柵がまっすぐに並んでいる。長さが一キロほどもあるこの竹柵の先端は矢印状に造られていて、そこに追い込まれた魚が逃げ出せないような仕掛けになっている。広大な湖のあちこちには大規模な養魚場もある。しっかりと竹を組み並べた囲いの中にはさらに目の粗い網が張ってあり、その中では三〇センチ以上もある魚が悠然と泳ぐ。養魚場近くに浮かんだ舟の中では、網の修理をする男たちや魚の餌を準備する少年たちが忙しそうに立ち働いている。湖の中央あたりに煙を上げている大きな船が見える。ブリキの波板で囲まれた船の中をのぞいてみたらプラホックの製造工場だった。船内にはたくさんの瓶が並んでいる。湖上で寝泊まりしながら仕事を続けているらしい。

 このような大規模な集団漁法があるかと思えば、その一方では家族単位くらいのこじんまりとしたものも多い。しかも多種多様の漁法がみてとれる。手こぎの小舟に乗った夫婦が竹でできた魚籠を引き上げている。湖岸近くではひとりで投網を打つ漁夫がいる。紐でゆわえただけの小枝を湖から引き上げている舟がいる。近づいてみたらエビ漁だった。枝の隙間に入り込んだエビが差し出された網の中にぽろぽろとこぼれ落ちている。その舟の進む方向へ目をやると水面には点々と浮きが並んでいた。その下につるされた枝の中にはたくさんのエビが入っていることだろう。船着き場にもどってみると、そこはちょっとした騒ぎになっていた。漁民たちですら見たこともない珍しい魚が獲れたという。どうやら巨大ウナギのようだった。長さは一メートルを超えている。胴回りも三〇センチ以上はある。このウナギはすぐにシェムリアプ市の高級ホテルへ運ばれていった。湖に暮らす人々は湖の大きな変化にも柔軟に対応しその恵みを受けて生活している。トンレサップ湖は湖に暮らす人々の「命の湖」である。

 

クメール文明とトンレサップ湖 −壁画に残された湖−

 アンコール時代の人々とトンレサップ湖との密接なかかわりは、バイヨン第一回廊の壁面に生き生きとした浮き彫りとして残されている。あちこちでトンレサップ湖の情景らしいものに出会う。魚籠のならんだ小舟の上から投網を打つ漁師がいる。網の下にはおもりがならんでいる。現在の湖でみかけるものとほとんど同じだ。舟の下には巨大な魚が泳いでいる。何種類かが描き分けられているようだが、残念ながら種類まではわからない。ヤギを呑み込む巨大な魚もいる。カニやザリガニ、ワニがいる。大きな亀もいる。ずんぐりした足や甲羅の形は海亀のものではない。それでこの絵がトンレサップ湖を描いたものと判断できる。投網の真下には十数人が乗り込んだ大きな舟が描かれている。水上交通に使ったものだろうか。ともにはまげを結った男が長い櫓をこいでいる。冠をかぶった男に指図されているようだ。その正面には水瓶をかかえて正座した人や日よけを差し出す人の姿がある。向かい合ってなにやら調合しているらしいふたりの男もいる。頭上に手をかざしている男は踊ってでもいるかのようだ。一方、投網を打つ漁師の真上にはもっと巨大な船も彫り込まれている。軍艦だろうか。まっすぐに切り立った舳先は船足の速さを想像させる。たくさんの魚が売られている市場、そして魚を料理する妙齢の女性など、バイヨンの第一回廊には湖と当時の人々との強い結びつきを連想させる光景がいとまなく続く。また、湖を舞台とした史実も生き生きと描かれている。十二世紀末とされるアンコール軍とチャンパ軍との水上戦だ。両軍の船には多くの兵士たちが乗り込んでいる。激突した船上で刀や槍で切り結ぶ兵士たちの中には、船から湖に転落するものもいる。それを水中で待ちかまえるワニの姿もみえる。そのワニに捕まったきのどくな兵士もいる。この浮き彫りからは湖で起こった史実を後生に正確に伝えようとする意志さえ感じる。

 一方、アンコール・ワット第一回廊東面南側には有名な天地創世神話の浮き彫りが四十九メートルにもわたって描かれている。ヴィシュヌ神の化身である大亀クールマの背にのせたマンダラ山を心棒にし、これに絡ませた大蛇ヴァースチを綱として神々と阿修羅とが左右から引き合うことでマンダラ山を回転させ大海を攪拌するという乳海攪拌神話である。千年あまりも続いたこの攪拌作業によって大洋は乳の海となり、その中から天女アプサラスやデヴァダ、そして美の女神ラクシュミーが誕生し最後に甘露が得られたとされる。これはもともとはヒンドゥー教の創世神話である。しかし、当時のクメール人がヒンドゥーの教えあるいはインド文化をクメール流に咀嚼していったことが知られている。攪拌され乳状になった海とはまさに一年をとおして泥で濁ったトンレサップ湖を彷彿させるものがある。回転する大亀の下で逃げまどいずたずたに裂かれた魚やワニは当時の人々にとってはなじみ深い存在であっただろう。当時のクメール人たちがヒンドゥー神話の乳海を身近なトンレサップ湖と重ね合わせたように感じてならない。

 このようにアンコール時代の人々がトンレサップ湖ときわめて密着した生活をしていたことは疑いのない事実である。また、当時の人々は雨季に拡大するトンレサップ湖の水面がどこまでとどくのか確実に知っていた。アンコール遺跡はクーレン山地から南に向かってなだらかに広がる扇状地の裾野に位置している。周囲の低地よりもやや高くなっているためこの地域にだけは雨季に拡大する湖もとどかない(図2)。しかし、アンコール時代の湖とはいったいどのようなものであったのだろう。壁画に陸亀が描いてはあるもののはたして淡水湖だったのだろうか。今より大きかったのかそれとも小さかったのか。現在のような季節による面積や水位の変化はあったのだろうか?

 

魔性の湖 −結びにかえて−

 トンレサップ湖にかようようになって九年が過ぎた。この間のカンボジアではUNTACの統治や最初の全国総選挙があった。一九九七年には軍事クーデターが勃発したものの政情は徐々に安定してきたようだ。アンコール遺跡には毎年多くの観光客が訪れている。それにともなって人々の生活も安定し豊かになってきたようにみえる。これは喜ばしいことには違いない。しかし、ずっとトンレサップ湖を見続けているとそこに微妙な変化を感じずにいられない。人々の生活が豊かになり観光産業が活発になるにしたがってシェムリアプ川に投棄されるゴミが増えた。それも簡単には腐敗しないプラスチック製品がその大半をしめる。そしてこれらのゴミは間違いなく湖へと流れ去っていく。周辺森林の乱開発によって湖へ流れ込む土砂の量が増えつつあることが懸念されている。市場ではこれまでの生態系を破壊しそうな外来魚が発見されている。メコン河でもダムや橋梁の建設などの大規模な土木工事が進行中あるいは計画中だ。メコン河の開発がトンレサップ湖での堆積作用や生態系になんらかの影響を与えることは必至だろう。

 多種多様の生物資源を誇るトンレサップ湖はアンコール遺跡とならびカンボジア最大の財産といえる。この財産を末永く活用し維持するためには、まずこの湖のすべてを正しく評価することが不可欠だ。雨期と乾季とではどれくらいの水が出入りしているのだろう。それによってどれほどの堆積物が移動しているものだろうか。どんな生物がいるのだろう。彼らはどのように暮らしているのか・・・。そのどれもがよくわかっていない。湖の生い立ちを探ることもそのひとつに過ぎない。トンレサップ湖の魅力はつきない。魔性の湖とでも表現すべきだろうか。